It's a beautiful day

取るに足らない、ささやかな出来事について

石を積む

古いお寺の脇に、数え切れないほどの蝉が鳴き競っている森を抜ける道がある。その道を20分ほど登ると、少しだけ開けた展望台に着く。展望台といっても登り道の曲がり角を膨らませて整備してある「ちょっと街が眼下にのぞめる」程度のところだ。その上、景色がいいのは冬の話で、春から秋にかけては葉が視界を隠してしまうため展望は望めず、ただ荒い息を整えるだけの場所になる。

ベンチの代わりだろうか、少し大きめのごつい岩が展望台の先端にある柵の前に置かれている。その岩に腰を下ろしタオルをリュックから取り出すと、顔から吹き出す汗を押さえる。目の前から2本目にある柵の支柱の根元に、手頃な大きさの石が積み重ねられている。
手頃な大きさというのは、手で抱えるに大きすぎず、かといって片手で楽々持てるほど小さくもない、そんな手頃感を体現している石のことだ。

最初にここに来たときには、積み重ねられている石はなかった。
ただ。手頃な大きさの石が数個転がっていただけだった。
それを見たぼくが、石を積み重ねたのだ。

誰しも手頃な大きさの石が目の前にあると、積み重ねるか、並べるか、必ず何かのパターンを作ろうとするようだ。ぼくだけではない、これはきっと人間の脳に備わっている本能のひとつなんだ。
誰かが石を使ってパターンを作り上げると、そのパターンを見たほかの人は本来そこにあるはずのない意味を見出そうとするのだ。
そして、それを発見した後世の学者が「この石は宗教的な儀式の意味を持って並べられているに違いない」とかいうわけだ。
もうそうなってしまっては、手頃感を持った石が先なのか、宗教が先なのか、誰にもわからない。あの有名なストーンヘンジだって、最初はそんなところから始まったのかもしれない。

いま目の前にある、この展望台の石積みは、ぼくだけではない誰か知らない人たちが積み上げたまちまちの大きさの石で小さな岩山のようになっている。


数年前、最初にこの展望台に来たときは、山頂に行くのが目的だった。今はただ石を積みに来ている。石を積んだら、そのまま元来た道を引き返すのだ。

目的は変わったが、その目的の意味のなさは変わらないように思う。